絵 上野紀子 作 あまんきみこ
1 「かげおくり」って遊びをちいちゃんに教えてくれたのは、お父さんでした。
2 出征する前の日、お父さんは、ちいちゃん、お兄ちゃん、お母さんをつれて、先祖のはかまいりに行きました。その帰り道、青い空を見上げたお父さんが、つぶやきました。
お父さん 「かげおくりのよくできそうな空だなあ。」
お兄ちゃん 「えっ、かげおくり。」
と、お兄ちゃんがきき返しました。
ちいちゃん 「かげおくりって、なあに。」
と、ちいちゃんもたずねました。
お父さん 「十、数える間、かげぼうしをじっと見つめるのさ。十、と言ったら、空を見上げる。すると、かげぼうしがそっくり空にうつって見える。」
と、お父さんが説明しました。
お父さん 「父さんや母さんが子どもの時に、よく遊んだものさ。」
お母さん 「ね。今、みんなでやってみましょうよ。」
と、お母さんが横から言いました。
ちいちゃんとお兄ちゃんを中にして、四人は手をつなぎました。そして、みんなで、かげぼうしに目を落としました。
「まばたきしちゃ、だめよ。」
と、お母さんが注意しました。
「まばたきしないよ。」
3 ちいちゃんとお兄ちゃんが、やくそくしました。
「ひとうつ、ふたあつ、みいっつ。」
と、お父さんが数えだしました。
「ようっつ、いつうつ、むうっつ。」
と、お母さんの声も重なりました。
「ななあつ、やあっつ、ここのうつ。」
ちいちゃんとお兄ちゃんも、いっしょに数えだしました。
「とお。」
4 目の動きといっしょに、白い四つのかげぼうしが、すうっと空に上がりました。
「すごうい。」
と、お兄ちゃんが言いました。
「すごうい。」
と、ちいちゃんも言いました。
「今日の記念写真だなあ。」
と、お父さんが言いました。
(間)
5 次の日、お父さんは、白いたすきをかたからななめにかけ、日の丸のはたに送られて、列車に乗りました。
「体の弱いお父さんまで、いくさに行かなければならないなんて。」
お母さんがぽつんと言ったのが、ちいちゃんの耳には聞こえました。
6 ちいちゃんとお兄ちゃんは、かげおくりをして遊ぶようになりました。ばんざいをしたかげおくり。かた手をあげたかげおくり。足を開いたかげおくり。いろいろなかげを空に送りました。
7 けれど、いくさがはげしくなって、かげおくりなどできなくなりました。この町の空にも、しょういだんやばくだんをつんだひこうきが、とんでくるようになりました。そうです。広い空は、楽しい所ではなく、とてもこわい所にかわりました。
(効果音:空襲警報)読み方 速度を上げる
8 夏のはじめのある夜、空しゅうけいほうのサイレンで、ちいちゃんたちは目がさめました。
「さあ、急いで。」
お母さんの声。
9 外に出ると、もう、赤い火が、あちこちに上がっていました。
10 お母さんは、ちいちゃんとお兄ちゃんを両手につないで走りました。
風の強い火でした。
11 「こっちに火が回るぞ。」
アンサンブ こっちに火が回るぞー
12 「川の方へにげるんだ。」
コーラス 川の方へにげるんだ。
だれかがさけんでいます。
13 風が
+ア あつくなってきました。
ほのおのうずが
+コ 追いかけてきます。
お母さんは、ちいちゃんをだき上げて走りました。
「お兄ちゃん、はぐれちゃだめよ。」
14 お兄ちゃんが転びました。
15 足から血が出ています。
14 ひどいけがです。
14+15 お母さんは、お兄ちゃんをおんぶしました。
「さあ、ちいちゃん、母さんとしっかり走るのよ。」
けれど、たくさんの人に追いぬかれたり、ぶつかったり―、
アンサンブ ぶつかったり、追いぬかれたり―
ちいちゃんは、お母さんとはぐれました。
(お母さん、お兄ちゃん後方へ下がる)
「お母ちゃん、お母ちゃん。」
ちいちゃんはさけびました。
15 そのとき、知らないおじさんが言いました。
(おじさん前へ)
おじさん 「お母ちゃんは、後から来るよ。」
そのおじさんは、ちいちゃんをだいて走ってくれました。
読み方 速度落とす
16 暗い橋の下に、たくさんの人が集まっていました。ちいちゃんの目に、お母さんらしい人が見えました。
「お母ちゃん。」
と、ちいちゃんがさけぶと、おじさんは、
「見つかったかい、よかった、よかった。」(おじさん下がる)
と下ろしてくれました。
でも、その人はお母さんでは。ありませんでした。
ちいちゃんは、ひとりぼっちになりました。ちいちゃんは、たくさんの人たちの中でねむりました。
17 朝になりました。町の様子は、すっかり変わっています。あちこち、けむりがのこっています。どかがうちなのか―。
(おばさん前へ)
おばさん 「ちいちゃんじゃないの。」
という声。ふり向くと、はす向かいのうちのおばさんが立っています。
「お母ちゃんは。お兄ちゃんは。」
と、おばさんがたずねました。ちいちゃんは、なくのをやっとこらえて言いました。
「おうちのとこ。」
「そう、おうちにもどっているのね。おばちゃん、今から帰るところよ。いっしょに行きましょうか。」
おばさんは、ちいちゃんの手をつないでくれました。二人は歩きだしました。
18 家は、やけ落ちてなくなっていました。
「ここがお兄ちゃんとあたしの部屋。」
ちいちゃんがしゃがんでいると、おばさんがやって来て言いました。
「おかあちゃんたち、ここに帰ってくるの。」
ちいちゃんは、深くうなずきました。
「じゃあ、だいじょうぶね。あのね、おばちゃんは、今から、おばちゃんのお父さんのうちに行くからね。」(おばさん下がる)
ちいちゃんは、また深くうなずきました。
19 その夜、ちいちゃんは、ざつのうの中に入れてあるほしいいを、少し食べました。そして、こわれかかった暗いぼうくうごうの中でねむりました。
「お母ちゃんとお兄ちゃんは、きっと帰ってくるよ。」
20 くもった朝が来て、昼がすぎ、また、暗い夜がきました。ちいちゃんは、ざつのうの中のほしいいを、また少しかじりました。そして、こわれかけたぼう空ごうの中でねむりました。
(音楽)
21 明るい光が顔に当たって、目がさめました。
「まぶしいな。」
ちいちゃんは、暑いような寒いような気がしました。ひどくのどがかわいています。いつの間にか、太陽は、高く上がっていました。
22 そのとき、
「かげおくりのよくできそうな空だなあ。」
というお父さんの声が、青い空からふってきました。
「ね。今、みんなでやってみましょうよ。」
というお母さんの声も、青い空からふってきました。
ちいちゃんは、ふらふらする足をふみしめて立ち上がると、たった一つのかげぼうしを見つめながら、数えだしました。
「ひとうつ、ふたあつ、みいっつ。」
23 いつの間にか、お父さんの低い声が、重なって聞こえだしました。
「ようっつ、いつうう、むうっつ。」
お母さんの高い声も、それに重なって聞こえだしました。
「ななあつ、やあっつ、ここのうつ。」
お兄ちゃんのわらいそうな声も、重なってきました。
「とお。」
ちいちゃんが空を見上げると、青い空に、くっきりと白いかげが四つ。
「お父ちゃん。」
ちいちゃんはよびました。
「お母ちゃん、お兄ちゃん。」
そのとき。
体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりました。
24 一面の空の色。ちいちゃんは、空色の花畑の中に立っていました。見回しても、見回しても、花畑。
「きっと、ここ、空の上よ。」
と、ちいちゃんは思いました。
「ああ、あたし、おなかがすいて軽くなったから、ういたのね。」
25 そのとき、向こうから、お父さんとお母さんとお兄ちゃんが、わらいながら歩いてくるのが見えました。
「なあんだ。みんな、こんな所にいたから、来なかったのね。」
ちいちゃんは、きらきらわらいだしました。わらいながら、花畑の中を走り出しました。
(ゆっくり、はっきり)
26 夏のはじめのある朝、こうして、小さな女の子の命が空に。
消えました。(悲しみを込めて)
27 それから何十年。町には、前よりもいっぱい家がたっています。ちいちゃんが一人でかげおくりをした所は、小さな公園になっています。
28 青い空の下、今日も、お兄ちゃんやちいちゃんぐらいの子どもたちが、きらきらわらい声を上げて、遊んでいます。
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